青玉神社 (兵庫県多可町加美区鳥羽)

   青玉神社  社史概要

 弥生時代、但馬の豪族 天之日矛(天日鉾-アメノヒボコ)の尊が、古代国造りの要衝-政治と鉱物資源開発のため、但馬・丹波・播磨の国境三国山頂の「踊り場」に祖神の天目一箇神(アメノメヒトツノカミ)を祀り行政の証とした。千八百年以前(垂仁三年)二世紀頃と推定される。

 「踊り場」は、神々の『まほろば』であり、後に播磨・丹波の民がこの広場に集まり、踊りによって祖先の霊と一体になった。護摩焚きも行われた。

 『御神霊』は奈良の都造営(七一〇年)ごろ、奥播磨賀眉の里の各集落の主神(氏神)としてオオタマ=青玉の森に祀られた。南の庄の大歳の神(オオトシタマ)も祀られた。御神木の『夫婦杉』(昭和四五年天然記念物指定)が千年余りの大昔を偲ばせる。

 『青玉さまは、三国峠を越えて来られた出雲の神さまである』という伝承がある。事実、弥生文化(稲・銅・製鉄・紙等の技術)は三国峠を越えて奥播磨に伝わった。青玉神社は『鍛冶の神様』の全国的な元宮である。(室町時代、ご神体は他の各集落の神社に併神された。)

 『瑞神門』は鎌倉様式で、一二五〇年代に建てられたと推定される(現礎石址)。加美区豊部集落の南旧道の地名「桜」に一の鳥居が建てられた。

 社格は九二七年(延長五年)に定められた延喜式社である。(正一位青玉大明神)。神社は応仁の乱の初期、一四九四年(明応二年二月)原因不明で消失した。神社は再建され、戦国時代と繁栄し、たたら技術や紙の神・鍛冶の神様として多くの人々の信仰・参詣で賑わった。一八五六年(安政三年九月十七日)再び消失した。

 「尊皇攘夷」の騒がしい時代であった。多くの氏子の膨大な浄財で再建されたのが現在のお社である。お社は、再建毎に拡張され、立派になった。

 天保年間の神社拡張時、神殿背後から出土した玉壷二個(現当社の小宮に宝蔵)は、平安藤原期のものであり、神仏習合としては最古のものである。

 八五九~八七七年(貞観年間)宮中で行われた『湯立神楽』が原型のまま残されているといわれる司祭の行事『湯立て祭り』は、中世以降現在に引き継がれ、毎年七月中旬盛大に行われる。巫女が舞い、熊笹の葉で参拝者に湯をふり注ぐ、無病息災を願うこの神事は壮麗で総てが神様と一体になれる時である。

 霊樹『乳の木』に婦人が甘酒をお供えして祈ると、乳の出が良くなるとの言い伝えがある。

     二〇〇七年吉日  文責・奉納 青玉神社氏子 龍岳


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青玉神社は、かいぞう宅から車で40分くらいで行け、

参拝させていただく度に気持ちが落ち着くお気に入りのスポットの一つです。

わしのブログに度々紹介させていただいてます「天日鉾-アメノヒボコ)の尊」に

縁のある神社でもあります。

但馬人として当然 お慕い申し上げる神様ですが、古代の日本史を語る上でも、とても重要な立場のお方でもあり、今後も深く探求させていただきたく思います(*^^*)


上記の社史は、拝殿内の壁に掲げられていたものを写真に撮り、自分で書き写したものですので、もし誤字・脱字があるかもしれないけど許してネ ^^:ゞ


で、これは余談ですが、

青玉神社の参拝入り口の、道路を挟んだ反対側に「道の駅R427かみ」があり、

地元の特産品などを販売しているのですが、

ここの「梅干し」が絶妙に美味しいのです! 立ち寄ればいつも買っちゃいます(^^)

ほんとに かいぞう ?

ほんとうは 遊んで暮らしたいぞ    …

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